こころの法話集056
お話056
一切を相手に任せる
金沢市・瑞泉寺住職 杉本齊
裏切られない信
「信じていた人に裏切られた」とか、「だれも信ずることが出来なくなった」とか、「信じられるのは自分だけ」などなど、日常生活の中でよく耳にする言葉ですが、考えてみますと、これは非常に身勝手な、身の程知らぬ言葉だと思います。なぜかと言えば、「信ずる」と言う言葉の代わりに、「思い込む」と言う言葉を置き換えれば、その辺がはっきりして来ます。
信じていた人に裏切られたと言うのは、裏切ることのない人と、私が勝手に思い込んでいたと言うことであり、だれも信ずることが出来ないというのは、だれでも私の思う通りにしてくれるものと、私が勝手に思い込んでいたと言うに過ぎないと言えるからです。
しかもこの私自身、仏教で言う凡夫、ただの人に過ぎないわけで、身も心も全く当てにならない、縁によっては、何をしでかすかもわからないし、いつ心変わりをするかもしれないものだと言うことに気がつけば誠にわが身勝手な“根性よし”と言わざるを得ないと思います。
では、裏切られない信とは、どのような信かと言えば、それは「おまかせする」ことと思います。自分の都合のよいように思い込まないで、どうなとお好きなようにと、一切をまかせきったところには、はじめて裏切られない信があるのだと思います。言い方を換えれば、裏切られてもよろしいと言った心こそ、裏切られない信だと言えるのではないでしょうか。