こころの法話集067
お話067
「事足りる」心知らされて
春江町千歩寺・順教寺前住職 中臣徳恵
み仏と共に
真実のお念仏に生かされる者は、「み仏の光」に摂(おさ)め取られて、大きな慶(よろこび)をもって、「み仏と共に」の一日を歩むことができるのであります。親鸞爾聖人は、数々の著述の中で、摂取(せっしゅ)という語を二十七カ所記されてあります。
阿弥陀経和讃には、「十万微塵(みじん)世界の念仏の衆生(しゅじょう)を摂取して、すてざれば、阿弥陀となづけたてまつる」とあります。阿弥陀如来の心のお光の中に、おさめとられ、限りない智慧(ちえ)と慈悲に包まれて、護念され、すなわちまもられて、しばらくも見捨てられないからであります。“みてござる”“知ってござる”“聞いてござる”と言われる通り、常によろこびの心が与えられ、たしなみの気持ちになるのであります。“よく、いかり、ぐちのおこるそのときは両掌(て)合わせて南無阿弥陀仏”
私どもの欲は知らず知らず、貧(どん)すなわち、むさぼりがやみなせん。お念仏によって、「事足りる」を感謝して、貧欲の制限をさせてもらいます。瞋恚(しんに)のはらだちが起こる時、お念仏によって、自分が悪かったことに気づいて反省して心落ち着き、愚痴(ぐち)の起こる時、またお念仏によって“あきらめる”心が出てきます。
こうして、日々の悪業煩悩を縁として、心が方向転換します。常に、「み仏と共に」の生活は、今日のよろこびであります。
“いつでも、どこでも、み仏と共に”