こころの法話集079
お話079
熱中しても周囲に目
芦原町轟木・浄光寺 高木正之
自己を見つめる
プロ野球の試合を見るのは、大変楽しいものです。とりわけ、伝統の巨人対阪神戦などは、ついわれを忘れて熱が入ってしまいます。特に、激しい試合展開の時など、エキサイトするあまり、ファン同士の乱闘騒ぎが起こったり、また選手同士がきわどいプレーの判定をめぐって、激しく抗議し合うためにせっかくのいい試合も、水をさされて、つまらなくなってしまうこどがあります。
私たちは、何かに熱中すると、つい周りを見ることを忘れ、その事だけしか目に入らなくなってしまいがちです。物事に熱中するには結構ですが、あまり熱中しすぎて、本質を忘れてしまっては、何もなりません。
宗教心にも、同じことが言えるのではないでしょうか。人間の体温は平熱が三六度五分です。もし、それより高い熱で、仮に四〇度あったとすればどうでしょう。これも、やはりどこか体の具合が悪いということになるでしょう。やはり、人間というのは、平熱の三六度五分を保っているから健康なのです。それと同じように、宗教心も、あまりかっかとなって、自分の周りを見る目を忘れてしまうと、これは病気です。その反対に、全く無関心というのも、やはり、どこか心の中で冷たい風が吹くのではないでしょうか。
親鸞聖人は、書物の中に「ヒソカニ オモンミレバ」と言われているように、決して熱病のごとく燃えさかる思いで法を説かれたのではないです。常に静かに自分を見つめながら、心を穏やかに保って、皆々に法を説かれたのだと思います。私たちも日々を振り返って、少しの時間でも、もう一度自己を静かに見つめる時を持ちたいものです。