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こころの法話集091

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お話091

「自己理解」の難しさ

福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾

出来そうで出来ないこと

この間、スーパーマーケットで買い物をする機会がありました。広いお店の中をグルグル回りながら、多くの商品に、日本は持てる国だなあとつくづく感じました。私のような年齢の者には、昔の食糧不足の時代が思い出されて、ため息が出るばかりです。
レジにまいりますと、女の子がものすごく速い指先でキーをたたき、さっと金額を言い、さっさっさっと、品物を一つ一つ包んでくれます。私はただぼんやりと、その手の速さと正確さに目を見張っているだけでございます。
ここで考えました。人間、自分で上手にやれることもあるが、簡単そうに見えて、なかなか自分で出来ないことも多いなあということです。もし私が、品物一つ一つを包んでいたら、さぞかし時間がかかり、不細工な包み方になるであろうなということです。
自分の力で出来ない事は、他人の力を借りて出来ることもあります。またそれでも出来ないこともありましょう。さて、そこで自分にも出来ない事、また人に頼んでも出来ないことは、一体何かということです。
考えてみますと、それは「自分の事」ということになるようです。外の言葉で申しますれば、それは「自分自身の始末」ということになりましょう。「あなたの気持ちは、私にどうしても分からない」とよく申しますが、人の気持ちが分かるはずかありません。

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それはそうでしょう。自分自身の物の見方で相手を見ているのですから、なおさらです。大体私たちは「自分で自分が分からない」のが本当の姿なのではないでしょうか。これを仏教では、「凡夫」と申します。ネオンが輝き、照明が何ルクスであろうとも、暗やみの手探りの人生が凡夫の姿です。光はどこから来るのでしょうか。「如来」を味わいたいと思います。

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