現代風の家具調モダン仏壇 仏具の通販

こころの法話集113

お話112 トップ お話114

お話113

自ら目覚めたいもの

大飯町川上・善応寺住職 山田策秀

水の恩

聞いてみやんせ誠の道を
無理な教えじゃないわいな
昨年は近年珍らしい水不足の年であった。水不足というより雨が少なかったといった方が当たっているようです。
しかし、日本中、豊作野菜のごときは出来すぎて捨てているありさまで、どこやらの国の飢きんで食べるものがない所へ送ってあげられるとよいがと思う者は私一人ではないと思う。
誠に結構な国に生まれたものと思う。これも雨が少なかったが、昨年は台風の上陸がなかったからのことである。表日本では節水が叫ばれていたが、それに引き換え、裏日本では順調に降り、天の恵みに感謝の毎日だった。
テレビを見ていると、よい湯だなあと浴槽の中でタオルを頭へのせ、温まっている姿はのんびりとして、実によい光景でほほ笑ましいが、時にはタオルで身体をこすっているのをみると、悪い所を写していると思う。それは、たとえ温泉であっても、大勢の方々がつかるのに、後の方にはアカの浮いている所へ入らすからである。湯舟の中でタオルを洗っている人も見かける事もあるが、「帰る時は来た時よりも美しく」という標語が泣くと思う。
金を払っているから、これぐらいと思うが、この世の中は自分一人だけではないから、一番よい状態を後の方に残さねばならない。
ある時「湯に入る時は、先ず両穴を洗ってから」といわれた方があり、よく心得た人だなと思った。「世法と仏法とは相違せず」と祖師は言われたが、全然別な物ではない。
水一滴もそれぞれ因縁あって下されたものであるから大切に。親の恩は送っても水の恩は送れるものではないと古人はいわれたが、近ごろはモーターの力で高い所へも遠い所へもひく事が出来るから何とも思わず使わせて頂いているから常々心して美しい水を下流の方にも使ってもらえるように心掛けたいものと思います。
明治少し前、京都・天龍寺の住職をされた方に滴水という方がありました。若い時、修行中に師匠のためにふろたき番になられた時、夏の暑い時であったのか、大分暑くわかされたらしく、師匠の儀山禅師が暑いからうめ水を持って来いと、声をかけられたので急いで手桶の底に少しあった水を急いで捨てて持って行かれた。

お話113

それをみて、儀山禅師は「何という事をすζのか。たとえわずかな水であっても、庭の木にかけてやれば、その木は喜ぶだろう」といわれたので、はっと目覚めて、己が名前を滴水と変え、修行に励まれ大成されたという事が伝えられています。人間目覚めるという事は一番大切な事ですから、水でなくてもどこからでもよろしいから自ら目覚めたいものです。

お話112 トップ お話114

powered by HAIK 7.3.0
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional