こころの法話集192
お話192
心に潤いと充実感を
坂井町下兵庫・丸岡高教諭 森瀬高明
癒されない渇き
宴会があった時など、終電車で帰る時があります。無人駅の一角にドリンクの自動販売機があります。やみの中にジュースの色ごとに小さく淡い光を放っています。黙ってコインをいれ、出てきたジュースを歩きながら飲みます。こんな田舎の小さな駅にも、酔い覚めののどを潤すジュースを売っているのです。
付き合い酒で、「楽しい」とか「愉快だ」とかお互いにわめき合い、ばか笑いしながら飲んだり食べたりしてきましたが、深夜の田舎道に響く自分の靴音が頭の「しん」に吸いこまれるようです。潤してくれるはずのジュースが、喉を通ってしまうと、再び前よりも激しい渇きとなって襲ってきます。
「風鈴が鳴るや、風が鳴るや」との問いに対し、「風鈴に非ず風に非ず、鳴るは心が鳴るなり」と。これは初歩的な禅問答のひとつでありますが、このような味わいの中に、何かしら多少の救いがあるのではないでしょうか。
「砂漠のような、東京で…」とかいう文句の歌謡曲がありました。楽しいことずくめの人口一干万都会が、どうして「砂漠」なのでしょうか。冷暖房が完備しているスマートなマンション住まいが、どうして「砂漠」なのでしょうか恐らくそれは、そのすてきなマンションで、生存競争に負けて自殺した人が答えてくれるでしょう。のどの渇きは、心の渇きが潤わないかぎり癒(いや)されないでしょう。壁一重へだてた隣の人が、とても遠い人なのです。