こころの法話集205
お話205
人生の果てにも「家」
坂井町下兵庫・照円寺住職 森瀬高明
親が待つ家
“お手手つないでみな帰ろ。カラスもいっしょに帰りましょう”
どんな人も、この歌の思い出は多いことでしょう。夕映えの中で、帰路を急ぐ人々の群れ…。カラスも動物もみなねぐらへ急ぎます。ラッシュアワーには、電車の駅や、バスの停留所には、たくさんの人が乗り物から吐き出され、思い思いに散って行きます。
ある人は一日の充実をかみしめながら、ある者は職場で受けた「いたで」を包み込みながら、とにかくすべての人が安息を求めて帰路を急ぎます。「親の待つ」あるいは「妻子の待つ」温かい家を目指してであります。
無量寿経の中に、人生の旅路が終わってなお「三界」を「流転」している私たちのために、阿弥陀仏は「摂(しょう)浄土の願」を建て、「美事に成就」されたと書いてあります。「摂浄土の願」とは、煩悩具足の私たちが、全部帰ることのできる立派な家を阿弥陀仏がお作り下さったのです。
その家は性別、老若を問わず、「いつでも」「だれでも」喜んで帰り、いつまでも住めるすばらしい家を建てて下さったのです。この家のことを「お浄土」と呼びます。
私たちにもし帰るべき家がなかったら、大変なことです。酔いしれて、一晩ぐらい公園のベンチで寝たとしても、その翌日からは、帰るべき家があるはずです。人生の旅路のはては、阿弥陀さまが待っていて下さるこの上ない立派な「家」すなわち「浄土」に帰らせてもらうことなのです。