こころの法話集232
お話232
親鸞が傍らにいる
清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲
「我なくも法はつきまじ和歌の浦、あおくさ人のあらんかぎりは」-ご先祖は二千五百年の昔から仏法を伝えてきました。つまり多くの人たちが信じてきたことを、私の短い人生体験で否定できるのものなのかどうか。この親鸞聖人のお歌も否定されることもなく、続いていくことを断言しておいでなのです。
「一人いて喜ぶばば二人と思うべし。二人いて喜ばば三人と思うべし。その一人は親鸞なり」とも言っておられます。「阿弥陀仏ここを去ること遠からず、み名呼ぶ人の袖やたもとに」アミダさまがいつも聞いていてござる、見ていてござる、知っていてござる-と先輩は教えています。私だけが知らずにいたのです。
「このままでは仏法はなくなってしまう」という人がいます。なぜそう言うのでしょうか。その人は心配しているのだと思います。なぜ心配しているのでしょうか。その人もまたみ仏の恵みをいただいているからでしょう。何もなくてどうしてそんなことをいいますか。知らぬ顔のはずです。無関心のはずです。馬の耳に念仏というではありませんか。
しかし、心配しているだけでなく、如来さまのお手伝いをしようではありませんか。それはお念仏することです。「重誓名声聞十方」-重ねてみ名が十方に聞こえるようにとの、お誓いなのです。