こころの法話集234
お話234
「仏教には無我」の心
清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲
「あほになれ、あほにならずば、この度の浄土参りはあやうかりけり」
あほになれといわれると抵抗を感じませんか。何しろ昔の親鸞さまの時代の土俗の凡夫とは異なり、今は教育水準が高くなっていますから。その証拠には会社などで「君はバカだな」と言われると腹を立てるではありませんか。酒の席で話題になるのは、自分を認めてくれない上司の悪口ばかりでしょう。
しかし、いくら小ざかしくしても、み仏の前では哀れな凡夫にすぎません。それなのにみ仏の仰せを疑い、不安があるのではありませんか。法然上人の「愚にかえりて信をとる」のお言葉もあります。比叡山で智慧第一の法然房といわれ、勢至菩薩(智慧をあらわす)の化身ともいわれた方にしてこの言葉があります。
むろんアホといっても白痴を意味するわけでなく、自己の考えに執着することをやめ、無我になることでありましょう。蓮如上人は「仏教には無我」とお示しになっています。
ある学生が尊敬する坊さんに教えを聞きにいきました。坊さんが茶わんに茶を注ごうとしました。茶わんにはもうお茶がいっぱいでした。「もうお茶を注いでも入りませんよ」と学生が言いますと「君も同じだ。まず心を空にしてきたまえ」と坊さんが答えました。実は学生は坊さんと議論するつもりでした。教えは素直に聞くものなのです。