こころの法話集259
お話259
仏への返事を怠らず
清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲
新聞の投書欄のお話-通学児童が朝、会ってもあいさつをしなくなったので「昔の子供は朝、人に会うとおはようといったのに、この頃の子供はしない、あいさつしなさい」といったところ、子供達は異口同音に「おはようといっても大人は返事をしないもの」と答えたといい、大人が反省すべきだ-という意味のものでした。
よく似た話では、タクシーの運転手に行く先をいっても、返事をしないという苦情あります、またスーパーのレジの人が、いらっしゃいともありがとうともいわないという苦情があります。
この原因は生活が機械化したためといわれます。自動販売機が普及した結果、ジュース、ビール、電車切符などではものを言わず買物をします。電車の改札で自動化したら、駅員さんがいないのでお客との会話もなくなりました。これでは人と人の心の通いあいの機会が少なくなります。
田舎では道で会うと「いい天気だね。どちらへ」「ちょっとそこまで」と微笑を交わします。大して意味のないような会話ですが、これで心が通い会うのです。赤ん坊が「アーアー」というと、母親が「よし、よし」とこたえますが、無意味なこの会話が、親子の愛が芽生える重要なことといわれます。
阿弥陀仏は「まかせよ。救う。わが名(ナモアミダブツ)を呼べ」と常にお呼び掛けでありますが、ご返事(ナモアミダブツ)を怠っていることはないでしょうか。古人は「み仏のみ名よぶ声はみ仏のわれを呼びますみ声なりけり」とうたいました。み仏と私と呼びかわしてのお慈悲であります。