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こころの法話集306

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お話306

人生は自分自身の鏡

大野市伏石・常興寺住職 巌教也

あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出会いました。それは…
「ものに味があるんではおへん。いただくこちら側に味がある。味の“素”は自分どす」(わらじ医者)
ある方のお話に、日本人ほど食べ物に、上手に自然の名前をつけている国民はいないと申されて、たとえば糸コンニャクは「白滝」といい、しょうゆは「むらさき」、塩を「浪の花」というようにと教えてくださいました。それこそまったく味のある話であり、言葉でありましょう。
さらに自然という言葉も、それは決して自然という物ではなくて、どこまでも物のあり方を示している言葉であって、仏教では自然という言葉を「じねん」と発音することによって、自(おの)ずから然(しか)らしめられてあるという風にご恩とかおかげの意味をそこに味わっていますから、どこまでも自分自身に主体的に受け取る、人間の心の内側の味を大切にしているからでありましょう。
ある方は「人生とはこの世に自分を見に来たところ」と申されましたが、そこにこそ内面的な人間の物の見方、考え方、味わい方の極意があるのではないでしょうか。自分中心の立場を変え、方向転換することにおいて、今まで気のつかなかったもう一人の自分自身に出会うという、驚きの発見でもありましたから…。
そして別のお寺の掲示板で読んだ次の二つの言葉を思い出しました。
「仏法とは鉄砲の反対だ。鉄砲は外を撃つものだが、仏法は己れの内を撃つものである」
「仏法を聞くとは、ありがたい話を聞くのでなく、ありがたい事実にめざめること…」

人間に生まれた喜び

金津町六日・善連寺住職 森啓智

最近の若者らは、よく私たちにむかって「親は頼みもしないのに勝手に生んでおきながら、親孝行をせよというが、少し身勝手なのではないか」と臆面もなく質問します。
そこで私は「人間の世界に生まれてきたことがそんなに不服なのか。もっと違った世界、例えば、動物か植物の世界にでも生まれたほうが良かったのか」と問い返しますと、異口同音に「人間の世界に生まれたことには満足している」という答えが返ってきます。
そこで私は「物は考えようだが、こんな結構な人間の世界に、しかも頼みもしないのに産んでもらったのは、親なればこそだと、むしろ喜び感謝してもよいのではないか」と答えたのですが、どれ程分かってもらえたか疑問です。
その点から言えば、幼児は人間に生まれたことを素直に喜んでいます。台所で夕食の支度をしている母親のところへやって来て、「お魚やダイコンはかわいそうやね。切られたり、煮られたり、焼かれたり、食べられたりするのやね。私ら人間に生まれて本当に良かったね」としみじみとかわいい口で話しかけます。死んだキンギョを庭の片隅に埋め、小さな石のお墓を立て、小さな手を合わせて合掌している幼児の姿は、まさに仏心の顕(あらわ)れと言ってよいでしょう。

お話306

ところが、こうした幼児が次第に大きくなるにつれて世のあかに染まって、そういうきれいな仏心を失ってしまうことは本当に寂しい限りです。ある人はこれをなげいて「幼な児が日毎日毎に知恵づきて、仏と遠くなるぞ悲しき」と詠んでおられます。味わうべき言葉ではないでしょうか。

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