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こころの法話集311

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お話311

名古屋市・潮音寺住職 鬼頭道研

念仏唱えよき人生を

人間は感情の動物です。ときにはたまらなく寂しく、無性に腹が立ち、愚痴をこぼしたくなることがあります。そんな時、本気で聞いてくれる、慰めてくれる、受けとめてくれる人さえあれば、泣きたいだけ泣くがよい、愚痴は言いたいだけいうがよい、それであなたの心は晴れ晴れするのです。そんな人は幸せ者ですね。
それでも心がともなわないような人は、その時、その傷、その心ですなわち悲しみ、怒り、愚痴をそのまま仏さまにぶつけるがよい。その方法は「右仏左衆生と拝む手の仲ぞゆかしき南無阿弥陀仏」の両の手合わせてお念仏することです。
この南無阿弥陀仏の声が、わが耳に聞こえた時に、われの今の悲しみ、今の怒り、今の愚痴が仏さまに届くのです。このわれのその場、その時のすべてを仏さまは聞きとどけ、見とどけ、知りとどけて下さって、それを乗り越え、ますますよりよき人生へと進む方法(道)をお導き下さいます。
この導かれた教えの通りに、私たちはついて行けばよいのです。すなわち教えの通り行うのはこの私です。立っていても仕事していても、ねる時でもお念仏によって導かれた毎日でありがとうございます。
一つ例を申し上げますると、ねてねぐるしい時には、苦しい(いたいとか)所に右手をあて、お念仏し、せきが出たら両手合わせて、耳にお念仏の声を聞いて下さい、仏さまが願いをかなえたり、その方法を教え導いて下さいます。ナムアミダ仏…。

人間として永遠の命

お話311

「時は今処足本 その事に打ち込む命 永久の御命」私たち人間としての生命は永遠に続く命です。父、母の良きご縁によって、この世へ人間に生まれさしていただいたこの私の生命は、その時、その場において私のつくる業(しわざ)によって、あらわれてくるものであります。
ある時は喜び、ある時は悲しみ、ある時は腹立つ、その心がそのまま心晴れ晴れ、ある時は失望のどん底、ある時はなぐりあいのけんかともなるものです。しかしどんなに良いことも強いことも、いつまでも続くものではありません。
それではいつまでも続く業とも生命ともいう、それはなんでありましょうか。そんな生命があるものでしようか。あります。それは、お釈迦様は「尽十方の無碑光如来」とお示し下さいました。この如来様のみ光に浴している状態を、法然上人様は南無阿弥陀佛ととなえることだと教えて下さいました。
「右佛左衆生と拝む手で…」と両の手合わせて南無阿弥陀佛ととなえることです。悲しみ、怒り、腹立ち、愚痴の心そのままで、その場、その時に南無阿弥陀佛ととなえるのです。
こうした時に私たちは人間として生まれて来た現在、その場、その時に、その人がもっともよりよい状態があらわれ、私の行うべきことはなんであるかを教え導かれて、よりよき人生が開かれていくものです。「南無阿弥陀佛の御名と思ひしにとなえる人の姿なりけり」南無阿弥陀佛…。

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