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こころの法話集312

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お話312

新潟教区・明誓寺住職 田子了秀

手合わす喜びに感謝

人と人とのつながりのなかで、一番大切なことに「あいさつ」があります。「あいさつ」は町の和、人の和、心の和」という標語を目にしたことがあります。朝元気いっぱいにあいさつをして、明るい一日を送ることは、なにものにも変えがたいすばらしいことだと思います。
特に「ありがとう」「おかげさま」「もったいない」の三つは仏法に合わせていただいた人たちの味わいであり、心のよりどころでありましょう。「ありがたい」とは、生まれがたい人間に生まれさせて頂いたことを知らされて頂くことであります。「おかげさま」とは、ありがたい仏法にあわせ頂いたことを思うことであります。「もったいない」とは、今日ただ今生かされていることに気づくとともに、味わいを深くすることであります。
「おかげさまにと生かされていることを喜び、ありがとうと生きぬく」。この感謝の気持ちをもつとき、両手が自然にあわされるのではないでしょうか。
手を合わすことをインドでは「ナマセ」というそうです。ナマセを音写して「南無」と書くのだと聞かされています。南無とは生かされていることに感謝して、それを信ずることです。もう一度、手を合わす喜びを知らさせて頂くとき、生活にゆとりとおもいやりのある人生を送ることができるのではないでしょうか。

苦悩の中にこそ信心

お話312

「人生は苦あり」。この世のなかは苦しみであり、悩みの世であります。その「苦しみ」であり、「悩み」であることが、あたかも他人によって苦しめられ、悩まされていると考えやすいのです。しかし、そのことが他人によってなされるのでなくして、「自分の問題」として気がついたときに、初めて宗教が、そして仏の心が分かるのです。
人生の苦しみも悩みも自覚せず、苦悩を解決しようと思わない、すなわち「人生の問い」を持たない生活は、形式的であり、おもてだけのものではないでしょうか。どこまでも自分の問題おして取り組むとき、それは本物であり、本当の生活に生きることだと思います。
仏の話や仏の話題になると、とかく遠い昔の問題と考えたり、生活より離れたことであるかのように思えたり、罪深いこの私が、未来にのみ救われ、仏の力によって安心して死ねるように思っていては、人としてあらゆる諸問題とともに、生きる意味がなくなるので
はないでしょうか。
信心すなわちまことの心をめぐまれ、弥陀の本願力が自分の生命となり、力強く生きぬく生命力になることこそ、本当の人生の意味があるのではなかろうか。
自分の罪悪、あさましい心、恐ろしい心、恥ずかしい心に対する問いがでてきたとき、私の心を知るとともに“仏の心”を知らさせていただき、仏とともに生かされていることを知るのではないでしょうか。
これが「おかげさまにと生かされていることを喜び、ありがとうと生きぬく道」を歩むことになるのではないでしょうか。そして、それが苦悩の中にある私であり、信心となると味わう世界であります。

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