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こころの法話集314

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お話314

小浜市遠敷・西光寺住職 吉田俊宣

いのちの法座「報恩講」

便利さ、それは幸せでしょうか?便利になることが幸福そのものだと勘違いしている、なんだかそんな気がしてなりません。
今、日本は世界一、生活の豊かな国でありましょう。でも、本当にそうですか…。物はあふれ、便利さはそこかしこにころがっていますが、精神生活(こころ)の貧しさは、これまた世界のトップクラスです。
いのちの意味を考えることもなく、忙しい忙しいに日夜追い回され、その合間につかの間の楽しみや慰めを入れて現実を忘れようとし、いとしい憎い、損した得したと、ホンに一時的な目の前だけのことに囚(とら)われ、まことの生きがいを問うこともなく、限りあるいのちをすり減らしている。
そんな私に、歴史を超えた永遠の真理法が、具体的にダイナミックにはたらいていた。アミダ如来のいのちにふれるとき、その永遠のいのちに生かされ生きぬく私が始まる。親鸞さまはそれをアミダ如来の本願、その本願からあふれ出るお念仏を聞く一つが、アミダ
如来の永遠のいのちにふれる世界なんだよ、と示してくださる。
そろそろ、日本中の浄土真宗のお寺では報恩講(ほうおんこう)が始まる。報恩講は親鸞さまのお言葉とご障害を通して、アミダ如来の永遠のいのちにふれる、真宗門徒にとっていのちの法座なのである。

現代人と仏教の使命

お話314

現代は人間性損失の時代であるといわれます。人間が、大事な大事な人間らしさを失ってしまったというのです。科学の発達によって、生活は大変豊かで便利になりましたが、今度はその科学文明に追いかけられ、とうとうその下に敷かれてしまったのです。
科学には、人間のような「心」がなく、すべてを「物」として見てしまうことを、あまり気にせず何もかも任せ過ぎて、気が付いてみたら、人間の「心」まで無くなっていたというところでしょう。
卵を生む機械となった鶏、肥え太らせて屠(と)殺する豚。もうそこには、生命をもつものという見方は全くなく、役に立つか立たんかという有用性で、すべてが押し切られてしまいます。会社や工場で働く人間は、いかに生産に役立つかであり、生涯という目的のために、いかに効率よく用いるかしかなく、部品=歯車=であります。
今また男女産みわけは、生命の尊厳に直結するのでしょう。原子力発電所の問題も、決して単純なものではありません。現代とは、人間自らが作り上げてきた科学文明の下に敷かれ、自己そのものを見失ってしまった時代なのです。
有用性や実用性といった物質的な見方、とらえ方しかできなくなった現代人に、「いのちあるもの」という見方を教えてゆく。そこに仏教の使命があるのかもしれない。

死を意識、本当の生を

科学文明の縛られから、もう一度人間らしさを取り戻そう-それが今日の問題です。人間は完全ではなかったのです。
では、人間らしさとは何でしょうか?人間の条件として大体、次の三つがあげられます。
①死を意識している
②手をもっている
③言葉をもっている
です。パスカルも言っていますが、その第一の死の自覚であります。
しかし、今(現代人にとって)死はタブーになってしまいました。死の醜さ、死の悲しさを社会から隠し、「死は恥ずべきもの…」と、自らの死を見つめようともせず、これこそ現代人・文明人と勘違いをしているのが、特に日本人ではないでしょうか。が、いくら「死」を遠ざけて生きていようと、間違いなしに確実に死んでいかねばならないのです。
近年、欧米では「死の学問」(カナトロジー)が盛んであると聞きます。いわゆるデス・エデュケーション(死の教育)。死を意識することを通して、より本当の生を送ることを目指す、生と死の教育であります。
仏教は二千五百年の昔から生と死を貫いて「いのち」を問い続けてきました。
限りある自己の「いのち」を見つめ、生かされて生きる自己の存在に目覚めるとき、他のすべての生命を尊んで、共に生きる世界が開けてくるのです。
御同朋(おんどうぼう)の社会であります。

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