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こころの法話集317

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お話317

生命の尊さに感動を

福井市松本四丁目・本願寺福井別院輪番 土基謙教

新しい年の新しい朝、すべてがすがすがしく新鮮な感じがします。山も川も歳末と少しも変わるところがないのに。それを見ている私の思いが、新たになっているからでしょうか。
私たちは無数の「いのち」に支えられて、自らのいのちが保たれていることを、忘れ去っていないでしょうか。実は「いのち」の尊さを、見ていないのではなかったでしょうか。
すべてのいのちの尊さに目ざめることこそ、仏の教えでありましょう。すべてのいのちがともに生きるいのちであることを教えているのが、縁起の道理です。
私たちに親しみの深い「阿弥陀経」には「共命鳥(ぐみょうちょう)のたとえが説かれています。この鳥はその名の示すように「一身両頭」、身は一つで頭は二つあります。二つの頭は互いに相手を倒すことによって、体を自分だけのものにすることができると考えます。
しかし、現実には相手を倒したとき、自らもまた倒れてゆかねばなりませんり共命鳥とは、実は私たち自信の姿ではないでしょうか。地球という一身の上で国と国とが争い、あるいは家庭という一身のなかで夫婦が争う。
いのちの新しさに感動するとき、すべてのいのちが私自身を支えてくれていたことに気づき、感謝の念が生まれます。こんなすばらしいことを教えてくださった仏さまと一緒に、今年も一日一日を大切に生きたいと思います。

「智慧の眼」をひらく

敦賀市金ケ崎・浄泉寺住職 嬰曇英鎧

お話317

「泣かされた酒だが母は墓にかけ」ある宗教誌に出ていた川柳であります。その方の亡父の面影をみるようであり、あとに残された奥さんの気持ちもわかるような気がします。
人生における喜怒哀楽ほど、私たちの生活にうるおいを与えたり、悲嘆のどん底におとしいれるものはありません。それは、まさしく人の一生を彩る万華鏡の一コマを見るようです。
ただ間違いない事実は、その喜怒哀楽におし流され」ている私自身の姿でしょう。仏教は、そういう私自身に気づく、もう一つの智慧(ちえ)の眼をひらかせていただくことであります。
釈尊が説かれたように「人生は苦なり」であり、苦楽あい半ばする世界ともいわれますから、苦しみのタネはつきませんし、一時の楽しみがあっても、それで苦悩が軽くなるというわけでもありません。
宗教に眼がひらかれてくれば、その受けとめかたが違ってくるのではないでしょうか。人間は逆境にたつと、苦悩におしつぶされそうになりますが、これに耐えられる身にしていただくのが宗教というものでしょう。
しかし「○○を信じていたおかげで命を落とすような交通事故にあったが、足に軽いケガですんだ」こういう意味で苦悩が軽くなると考えたら間違いでしょう。
真実の宗教に救いは、その苦悩の根源、つまり無明煩悩というものにかかわりをもち、人間の最も深いところで、その根源を抜くというところにあります。仏教は目覚めの宗教であります。

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