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こころの法話集351

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法話351

生命(いのち)

福井市松本三丁目・興宗寺住職・聖徳幼稚園長 北條紘文

今から二年半程前ですが、私の妻が流産した時のことです。四ヵ月目に入って異変があり、もうダメだとわかっていましたが、いよいよ腹痛が激しくなって、掻爬(そうは)手術をしていただきました。私は処置室の外で待っていましたが、中の様子が、聞こえるともなくうかがい知れる状態でした。
肉体的な苦痛はもとよりでしょうが、妻が四ヵ月あたためてきたおなかの子を、むしり取られる悲しみが、私の方へも伝わってくるのを、私は痛恨の思いで受け止めていました。私にとっても、果たして男に生まれる身であったのか、女に生まれる身であったのか、どんな顔をしてこの親に笑みかけてくれたであろうか、ばくとした顔ばかりが浮かんで、よけいに悲しいことでした。
処置が終わって、私は回復室に妻を残して家に帰り、本堂でおまいりをしました。数日間は、お精進をしました。それからもしばらくは、食卓に上る小魚を見るのが、無性に悲しい気がしました。それらのものの生命ということが、今までにない鮮烈さで感じられたからです。
私は、この悲しいでき事を通じて、二つのことを教えられました。一つは、私たちの命が、いかに多くの尊い生命によって支えられているかということです。もう一つは、母の子に対する愛の深さの源みたいなものを、感じさせられたことです。
み仏の私たちに対する慈悲の心も、母親の血肉を分けた子に対するような、子の命が親の命なのであります。どこどこまでも私にかかり果てようとされる、その願いを聞かせていただくのであります。

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