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こころの法話集390

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法話390

小舟のような存在(生命の行く末知らない私)

坂井町下兵庫・丸岡高校教諭 森瀬高明

自然法爾(一)

”子曰く「我、終夜思へり、益なし、学ぶにしかざるなし」と”これは有名な論語の一節です。つまり「ひと晩中あれやこれやと自分の思案の中で思いをめぐらせたあげく、自分で考える世界の小ささ、つまらなさを思い知らされた。こんなことをしている暇があったら、偉い学者の教えを学ぶことだ」と言うことです。
阿弥陀仏は、罪悪深重の凡夫を浄土に迎えるために、五却(こう)の間考えぬいて、本願を立てて下さったという。その本願は「今」の私たちのために立てて下さったのだということを親鸞様はお教え下さいました。
この尊い仏様のお救いにあってこそ、自分の肺活量の中でしか生きられない我が力のむなしさを思い知らされます時、仏様の大きなお恵みが、私たちの胸にしみこんで釆ます。
私たちは、ややもすれば、自分の多少の才能におぼれて、自分の手の届く範囲の考え方で、物事を判断する傾向にあります。もし成功すれば次第に自己過信におちいって、それが積み重なればなる程、自己顕示欲の権化となり下がっても恥と思わなくなります。
そんな私の「愚かしさ」「つまらなさ」を知らせて下さるのが仏様なのです。「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて往生をばとぐるなりと信じ、念仏申さんと思い立つ心のおこる時、即ち摂取不捨の利益(りゃく)にあずけしめ給うなり」
荒海に流された小舟のような存在の私なのです。悠久の己の生命の行く末が何も知らない私であるはずなのに「大悲は倦(う)むことなく常に我を照し給う」のです。

挿絵

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