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こころの法話集394

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法話394

愚かな私たちの姿(「お力」で「在るがまま」に)

坂井町下兵庫・丸岡高校教諭 森瀬高明

自然法爾

昔、中国に蔡君謨(さいきんぽ)という自い立派なひげの老人がいました。そのひげの評判があまりにも高くなって天子の耳に入りました。天子は老人のひげを見て礼賛しました。
そして言うには「見事なひげじゃが、おまえはその大切なひげを、寝る時には布団の中に入れておくのか、それとも外へ出しておくのか」と聞かれました。老人はどちらか覚えていないと答えますと、天子から「けしからん、大事なひげのことなのに何たることだ」としかられ、あすまでに返事すると約束して退出しました。
さて老人はその夜、ひげを布団の中に入れて寝ましたが、何か不自然なのです。今度は出して寝ましたが、やっぱりおかしい。ひげを入れたり出したりするうちに夜が明けてしまったそうです。
私たちの毎日の暮らしは「自我」と「自我」の論争で明けくれることばかりです。権利、義務、建前などの理屈は一応もっともらしく聞こえますが、つづまるところは「わがはからい」から出たことなのであります。
蔡君謨は、自然にひげを愛し、時には手入れし、時に忘れて、ひげをあるがままに育てて、そのような「美髭(びぜん)」にしました。しかし、愚かな私たちの「在るがまま」の姿は、ふた目と見られないものでありましょう。
ですから「在るがまま」素直にふるまいながら、それがいつの間にか「在るべき」ふるまいに変わるためには、そうさせて下さる大いなる「お力」がなければできません。「在るがままの私をそのまま、仏にかえて下さる姿」これを親鸞聖人は「自然法爾(じねんほうに)」と教えて下さいました。

挿絵

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