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こころの法話集395

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法話395

教師の誠意が必要(教え子の前で謙虚であれ)

坂井町下兵庫・丸岡高校教諭 森瀬高明

信ずること-教師と生徒①

「信じ合う」と言うことは、教師と生徒との人間関係の始発駅であり、終着駅でもあります。つまり、生徒の能力と人格の可能性を教師が信ずればこそ、生徒も教師を信じてくれます。生徒から不信感を持たれている限り、教師の誠意は、百万言を費しても、生徒の胸には届きません。
では、信頼される教師になるためにはどうあるべきかと申しますと、教師が「あるがまま」の自己をさらけ出し、その虚像を捨てて、生徒に接触することだと思います。
いたずらに学識と人格を誇示し「優秀だった若きころ」の自己像をひけらかして、いくら叱陀(しった)したところで、その怒号の陰にひそむ白々しいうそは、青少年の心をひどく傷つけます。これは何も教師と生徒との関係だけでなく、親子の間でも言えると思いますが…。
つまり、平たく言えば「教える立場の者」は「教え子」の前に「謙虚」であれということなのです。たとえその人が、その道の権威者であっても、日々新たなる社会と対決するためには、常々「学ぶ」心掛けでなければなりません。
昔から「日新月歩」と言われてきましたが、一九四五年以後の社会の変転は、目まぐるしいほどです。それは、すごいテンポです。「年々歳々、生徒新タナリ。年々歳々、教師同ジ」では、生徒の若い多感な需要に耐える教師になれないのは当然です。
ですから、そんなところに不信感も起こり、相互の断絶もでてきます。
「親鸞は弟子一人も持たず候」お弟子は皆「御同朋、御同行」として、仏の慈悲を説かれた親鸞聖人の姿を思い浮かべるべきでありましょう。

挿絵

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