こころの法話集397
法話397
自分の愚かさ認識(常に未来の姿見つめよ)
坂井町下兵庫・丸岡高校教諭 森瀬高明
後世を知らざるは愚者
自分を愚かと判断するか、賢いと断定するかは、いろいろな立場や見方で異なるでしょうが、少なくとも、自分が賢いかどうかは他人様がきめてくれるでしょうし、愚かであるかどうか、自分で気付かなければならないでしょう。
「愚禿(とく)が心は、内は愚にして、外は賢なり」と親鸞聖人はおっしゃいました。外観は賢く見えても、内面は愚かなる姿は、まさに私そのものであります。そう観じて行くことによって、誠の光に照らされた我が身の喜びを感得することができるというものです。
しかし、私たちは、仏様の知恵光に照らされたからといって、生まれてこの方、根を生やしてしまった「障(さわ)り」が全部消えてしまうほど、私たちの「業」は単純ではありません。
「浄土真宗に帰すれども 真実の心あり難し 虚仮(こけ)不実の我が身にて 清浄の心さらになし」これが未来の私の姿であることが知らされ、そのような私が「超世の悲願聞きしより われらは生死の凡夫かは 有漏(うろ)の穢身(えしん)はかわらねど 心は浄土に遊ぶなり」と知らされて、いっそう阿弥陀仏の慈悲の深さと、我が身の至らなさを知らされるのであります。
私たちの学問や知識の限界は、もともと浅いものであります。全くの無知者と学者との間の知識の差はほんのわずかです。そんな知識よりも、たったひとつのことだけは、かたときも忘れてはならない。いつもはつきりとわきまえている。それは我が生命の行く末を見定めることであります。