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こころの法話集420

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法話420

人間は死への存在(己のはかなさ知るべし)

美山町獺ケ口・正玄寺住職 岩見紀明

人の世のはかなさ(一)一茶の俳句に学ぶ

「露の世はつゆの世ながらさりながら」
小林一茶の悲嘆の句であります。一茶は五十二歳を過ぎるまで妻をめとらなかったようです。もちろん主義のためではありません。「汚れ猫それでも妻は持ちにけり」正直な告白です。生活の安定がなかったからだと思われます。
やっと生活安定の見通しの立った五十二歳の時、二十四歳も若い菊という娘と結婚しました。二人の間に生まれた子供は相ついで死に、妻にも先だたれました。彼はこの世の無常性については、たび重なる聴聞でいやというほど聞かされていたと思われます。
「露の世は露の世ながら」と肯定し、すぐ「さりながら」とぐちっています。言ってもしかたのないことを言ってなげいている様子がよくにじみでています。
人間は死への存在であり、死を意識する動物であります。しかし普通考える死は単なる知識であり観念であります。しかし、それが現実の自己にかかわる死ということになりますと、そういうわけにもいけないものです。
「散る花やすでにおのれも下り坂」不安が隠しきれぬ句です。「白露やいつものところに火の見ゆる」秋の露ははかなくも消えるものです。「いつものところ」とは在所の火葬場のことでしょう。「火の見ゆる」人を焼く火であります。
なんとなく寂しい人生の秋、死を間近にした心境です。一茶が晩年とくに信心深い生活を送ったと聞いていますが、それは人間的な価値のいかにむなしいかを知っていたからだと思われます。

挿絵

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