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こころの法話集431

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法話431

どんな人にも役割(積極的な生きがいに)

福井市松本三丁目・興宗寺住職 北條紘文

願われている自覚こそ喜びなり

私は四十を過ぎてまだ子供がありません。しかし、八歳になるおい(死亡した兄の子)が傍らへ来て話しかけてくれると喜びを感じます。
だんだん年をとって、失うことの多くなってきた寂しさとともに、こうでなければ、この子とこうした感情で親しみ合うことはなかったろうと思うと、年をとることを含めて、それなりのえにしの中に生かされていることへのうれしい味わいをほのかに感ずることができるのです。
人にはだれでも、その人でなければできない役割があります。お年寄りには、お年寄りでなければ到底かもし得ない温かさがあります。若者には、若者でなければ望み得ない頼もしさがあります。子供には、子供でなければ持ち得ないかわいさがあります。夫には夫、妻には妻でなければ果たし得ない役割があります。
どんなに病弱な人、どんなに失意の底にある人でも、その人にかけられた親の願い、子の願い、友人の願い、多くの人々の願いに、その人だけがこたえられるという役割があります。そうした役割への自覚こそ、積極的に生きる生きがいとなるのでありましょう。
非行に走ったり、車を暴走させてあたら尊い生命を軽んじたり、目先の欲や自我にとらわれで周囲の人の願いを踏みにじったり、こうしたことは、そうした役割への無自覚からくるのではないでしょうか。
どんな時でも、どんな私でも、みつめつづけてやまないみほとけの願いに目覚めること、これこそ、変わることのない生の喜びであります。

挿絵

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