こころの法話集043
お話043
結果の責任は自分に
金沢市・瑞泉寺住職 杉谷斉
道を選ぶのは私
人は順調に人生航路を進んでいる時は、まあ問題はありませんが、何か悪い事が起きた場合、全く話は別で、その障害の原因を多く他に帰して、あるいは恨み、あるいは憎み、その障害さえなかったならばと、悔やむことしきりと言う事になるのが普通一般の人情と言えましょう。
ところが、考えて見ると、生きている限り私たちは一瞬たりともじっとしていることの出来ないもので、人生の道を歩き続けて行かねばならぬものです。しかもその道は常にいろいろな方向へ通ずる岐路をもっており、どちらへ進むかは現実の問題としては、全く私の決定に任されていると言ってよいと思います。
真っすぐに行くか、右へ曲がるか、左へ進むかは、私が選び、私が決めて足を踏み出す以外にないし、また現に私たちは今までそのようにして歩いて来ているのではないでしょうか。
どちらへ進むかは選び方なり、決定の仕方は、その時その時で違うかもしれませんが、他の人に勧められての場合もあれば、何かを参考にしての場合もあれば、何げなくと言う場合もあるかもしれません。でも、最終的には自分でよかれと思って決めていると言ってよいと思います。
とすれば、現在の結果の責任は、第一に私にあるわけで、ほかを恨んだり、世をのろうことは見当違いと言えるのではないでしょうか。親鸞聖人は全責任をご自身に引き受け、決して責任転嫁をなさらなかった方のように思われます。