こころの法話集055
お話055
喜怒哀楽の情が働く
金沢市・瑞泉寺住職 杉本齊
生きているしるし
「生きている」と「いのちがある」とでは、どちらも死んでいないという点では同じですが、言葉のもつ意味は、だいぶ違うように思われないでしょうか。
肉体上ではほとんど同じでも、精神面を考えるとずいぶん異なり、天と地ほどの差があると言ってもよいのではないかと思います。
「生きている」の方は自分でも生きているといった自覚があり、従ってうれしいとか悲しいとか、うまいとかまずいとか、喜怒哀楽の情が働いているといってよいし、「いのちがある」の方は何に対しても、それによって喜怒哀楽の情が動くということがない状態なのではないでしょうか。
普通、人間はだれしも死にたいと思うことはなく、本心は一日でも長生きがしたいと思わぬ人はありますまい。たとえ死にたいと思うことがあり、実際に自殺するという人があっても、それは思う通りにならない苦しさのあまりであって、決して本心からではなく、苦境からの逃避といってよいと思います。
老人ぼけというのは老化から来る脳の異常で、そのため正常な意識が失われた状態をさすわけでしょうが、こうなったら、もはや生きているとはいえず、いのちがあるだけといってもよいでしょう。とすれば、腹が立ったり、うれしかったり、愚痴がこぼれたりすることこそ、生きているしるしであって、ありがたいことといってもよいのではないではないでしょうか。