こころの法話集062
お話062
迷惑かけたら反省を
金沢市・瑞泉寺住職 杉谷齊
見え
見えをはることの愚かしさはだれでも知らないものはないでしょう。余計な出費をしたり、人の恨みを買ったり、あるいは軽べつされたり、時にはそのために人と争うような事さえあります。外から見れば、心情としては分からぬこともありませんが、誠に愚かなことであり、悲しいことです。
ところが、さて自分の場合になりますと、事情は少々違うようです。それは一口に見えと言っても、すぐに見えと分かるものはいいとしても、私たちには人から良く思われたいとか、人に笑われないようにとか、いやな感情を与えないようにといった配慮からおかしてしまう見えがあるからです。
こうした見えは誠にやっかいなもので、自分では見えと気付かない場合が多いようです。イエス、ノーの返事を誤ったり、ぼかしたりしたために周囲の人にかえって迷惑をわけるような結果を招くといった事なども、その例でしょう。八方美人という言葉は決して褒め言葉ではありません。だれからも良く思われたいという心を持たない人はないでしょうが、そのような事は到底不可能と言ってよいと思います。
前をつくろえばあとがほころび、右をつくろえば左がほころびる。それが私たちの現実だからです。とすれば、たとえ一見見えとは思えぬ行為であったとしても、そのために迷惑をかけた方々に対して、言い訳をしないで素直に自分の見えが原因であった事を認め、済みませんでしたと頭を下げるよりほかないのではないでしょうか。