こころの法話集069
お話069
欲望、火葬場の灰まで
福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾
小さな思いが欲に
私は自動車を持っていますが、だいぶ古くなったので、新しいのが欲しいと思っています。しかし、あまり高いのでなかなか買えません。外の人のピカピカの車を見ると、本当にうらやましく思います。この欲しい欲しいという心が欲というものでございましょう。昔は欲しいの字の下に心の字を付けまして慾(よく)と読んでおりました。
人は欲のためにごまかし、欲のために悩み、欲のために怒り、欲のために人殺しさえもします。親子、兄弟、夫婦、嫁、姑(しゅうとめ)、友人といえども油断はなりません。欲、欲、欲、この欲の中で、何をしでかすか分からない人間、それが私どもの姿でございます。
そんな大げさなと思われるかもしれませんが、その発端は極めてかわいらしいことに見えるのです。「あら、あれいいなあ、あんなのが家にあるといいなあ、あれなら欲しいなあ」こんなことから始まるのです。
この時には決して欲というものは、恐ろしげな形や顔はしておりません。ほほえましい、あどけなささえ感ずるものです。恐ろしい欲の火種は、そんな所に潜んでいるものです。欲しいが、やがてむさぼりの心に燃え上がって行きます。あれも、これもという人間の欲望は、火葬場の灰になるまでやみません。
経文の中に、こんなのがあります。「田があれば、田があるで心配し、家があれば、家があるで心配する。また、牛馬など、今でいえば自動車や全自動洗濯機でしょう。それにお金、食物。あればあるで、どこもこれも心配の種である」とお経に書かれています。なるほどなあと思わざるを得ません。