こころの法話集105
お話105
人として喜び味わう
坂井町御油田・演仙寺前住職 多田淳政
聞法の喜び
年をとると、将来への希望は思わず、過去の思い出のみにひたることが多いようですね。そして過去を振り返ってみると、苦しみや悩みばかり思い出されてきます。そして、もうすぐ最後の苦である死を迎えてしまうのです。
しかし、私たちの人生はそんなはかないもので終わってよいでしょうか。せっかく人間に生まれた以上は、人間に生まれた喜びを感じなくてよいものでしょうか。
礼譜文の中に「人身受けがたし今すでに受く。仏法聞きがたし今すでに聞く。この身今生にむかって度せずんば、さらにいずれかの生にむかってかこの身を度せん」というお言葉があります。せっかく人間に生まれさせていただいた以上は、人間にのみ許される「法を聞く」という喜びを味わいたいものです。
六連島のお軽さんは、夫幸七の放とうのため、悩みに悩み、苦しみに苦しんだ十数年の歳月を送りましたが、法を聞くことによって、自分のあさましい心に気付き、如来様の尊いお慈悲に目覚めて、苦悩が喜びに転ぜられたのであります。
聞いてみやんせ
まことの道を
無理な教じやないわいな

これはその時お軽さんがよんだ歌ですが、それ以後多くの喜びの歌をつくり、法悦の一生を送ったのであります。そして自分だけの喜びに終わらず、放とう者であった夫や六人の子供まで法縁に導いたと言われています。
人間に生まれた喜び、それは法を聞くことにあるといただかせてもらいたいものです。