こころの法話集152
お話152
自分を責める目 持て
広島県・東本願寺布教使 野影義彦
「ひかり」と「いのち」㊥
このごろは自然を粗末にするせいか、天災地変がよく起こり、機械の発達は便利を生むと同時に危険率も高くなり、公害、水害、交通災害など、次から次へといろいろな事故が起こっています。
さてひとたび事故が起きますと、人々は目の色を変えて直ちに責任の追及に乗り出します。そしてだれかがその責めを負わなければ、問題の解決はつかめないんですね。すったもんだの揚げ句、補償とか見舞いとかの美名のもとに、人間の善意が見事金にすり替えられて一件落着を見るのです。
しかし、そこに燃えあがる憎しみの炎は少しも消えることなく、お互いの人生に暗い影を落とすことになります。これが、逃れることのできない私たちの宿業だとしたら、全くやり切れない、救いようのない修羅場だとは思いませんか。
地獄とは自分の責任は棚に上げ、人ばかり責めたて、のろい合う世界なのです。さて阿弥陀如来のいのちは、私たちの罪業を自らの痛みとして背負うて下さる大責任の方ですから大慈悲といい、これらを救うための活動がやむことがないので、無量寿と名づけるのです。
私たちは幸せも不幸も、みんな一人ひとりの責任としてそれを感じ、助け合って生きなければなりません。人ばかり責める目を内に向けてごらんなさい。だれよりも恐ろしい毒針をもった自分に気づくことでしょう。