こころの法話集190
お話190
犠牲に絶えず感謝を
金津町六日・善蓮寺住職 森啓智
生かされている生命
先に「生命の尊さ」について話をしましたが、その生命は有形無形の物のおかげで「生かされている生命」である事に気付かせてもらうことが大切です。われわれの生命は直接には両親からいただいたわけですが、今日まで生命を維持できたかげには、衣食住にわたっていろいろな人、物のおかげをこうむっています。
なかんずくわれわれは動植物の生命をちょうだいして生きていることに、思いをいたすべきです。決して動植物の生命をいただくことは「人間の権利」ではありません。大乗仏教の精神からいえば、「一切衆生悉有仏性」であって、仏性という点からいえば、人間も動植物も平等であるはずです。仏典には次のような説話があります。
ある日、一人の修行僧が座禅を組んでおりました。そこへ鷲に追われた鳩がやって来て、その僧に助けを求めました。もちろん殺生を嫌う僧は直ちに鳩を懐中にいれ、鳩を隠したところへ、後からやって来た鷲は、鳩を渡すように要求しました。
僧が即座に断ったところ、鷲は「あなたは鳩の生命を救って善をつんだつもりだろうが、餌にありつけなかった私は、空腹のため死ぬかもしれない。それは殺生と同じだ」と言ったので、大変困った僧は一思案後、「それじゃ鳩の肉の分量に相当する肉を、私が提供しよう」と言ってはかりを持って来させ、片方に鳩を載せ、片方に自分の片足のももの肉を少し載せました。
僧のつもりでは、片方のももの肉を少し切り取ってやれば、事が済むと簡単に考えたのでしょうが、どんどん肉を切って載せてもはかりは鳩の方に傾き、結局はかりがつり合ったのは、僧の肉が全部載った時、即ち僧が生命を落とした時でした。
これは数学では解けない問題です。あらゆる物の生命は平等であるという仏教の精神からでは理解できません。親鸞聖人がご臨終の際に、「某閉眼せば、此の身加茂川の魚に与うべし」といわれたお言葉は、いろいろ味わい方があると思いますが、聖人の心中に、当時としてはまれな九十歳まで生きられたかげには、たくさんの動物の生命を頂いた感謝の気持ちから、「死んで用のなくなったこの生命、今度は魚にやってほしい」というお気持ちもあったのではないかと思われます。私たちは感謝の気持ちから合掌してそうした生命をいただくとともに、そうしてた犠牲で支えられている生命は、世のため人のためにこそ使われるべきだと思われます。