こころの法話集222
お話222
仏の光明で明らかに
福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾
光を借りる
私たちは明るいとか暗いとか、あるいは「私の目は一・二だ」「このごろ年をとったのか新聞が読みづらくなった」など目に関する会話は多いものです。しかし、考えてみると、この私たちの肉眼は、自分で物を見ているように思いますが、光がなければ何も見えないのです。これを「借光眼」というそうです。
この地上で一番大きな光は太陽でしょう。その明るさは13・5万ルクスだそうです。満月の明るさの46・5万倍だといいます。それほどですから、この肉眼で太陽を見ようとすると、まぶしくてよく見えません。日食の時はガラス板に墨を塗って、ようやく見ることができるわけです。このように、アミダ仏の光明は私たちに物を見る光として与えて下さっているのです。その光明は「智慧の光明」といわれます。智慧とは知識ではありません。知識は自分の周りにたくさん積み重ねて、自分を守ろうとする、自分を拡大しようとする、ということができましょう。
ところが、智慧は、むしろ、その反対の性質を持っており、外の世界に向けられるものではなく、拡大、積み重ねを営んでいる、自分そのものを知っていこう、知らしめさせていただく「さとり」のことだといえましょう。仏の光明によって、照らしだされた自分そのものを明らかに見せしめられ、それを通して「光源」そのものに触れていける世界でありましょう。
「有無の諸相ことごとく、光暁かふらぬものはなし」であります。