こころの法話集233
お話233
念仏のなか親鸞あり
清水町島寺・浄福寺住職 藤井信哲
「逢いたくば南無阿弥陀仏を称うべし我も六字の中にこそ住め」
歎異抄の第二条に関東のお弟子方が、京都においでになる晩年の親鷺聖人をお訪ねして、往生極楽の道をお問い申し上げたとき、念仏のほかに往生の道はないとおこたえになっていますが、このお歌もまた、聖人はお念仏する人とともにありのお気持ちがにじんでいます。
寝ても起きてもお念仏のあるところには阿弥陀如来が共におわし、お念仏のお導きのあるところ親鷺聖人のお声が聞こえるようであります。
私はお寺の本堂や在家でのお座やお通夜の席で、大勢のお同行衆と正信偈をおつとめすることがすることがとても喜ばしく思われて、心強いものを感じ、自分自身も心の底から思いを込めて声を出していることに気づきます。六首引きですと、なんと素晴らしいお念仏の大合唱であことか。重誓名称聞十方-わが名は十方に聞こえようのお誓いのままではありませんか。
「信心の人に劣らじと疑心自力の行者も、如来大悲の恩を知り、称名念仏励むべし」の御和讃の通りで、信、不信の人がお念仏に打ち込んでいる姿こそ尊いものがあります。心の底より喜びとありがたさがこみ上げてきます。お聴聞にはこのムードが大切です。お経がすんだころに行ってお説教だけ聞けばよいという考えでは不十分です。