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こころの法話集249

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お話249

苦悩の救済、仏の願い

福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾

私の前に置かれているもの

私たちは、気づかないかもしれませんが、いつも、あらゆるものから「願い」をかけられています。親からの願い、先祖からの願い、子供たちからの「願い」。数えれば限りないくらいです。
ところで、「願い」という言葉は、インドの古い言葉(サンスクリット)では、”プラニダーナ”と言うそうです。その”プラニダーナ”という言葉は、「前に置く」という意味だそうです。実に味のある言葉とは思いませんか。いつも前に置いている。いつも自分からは、離れていないでそばにあるということでしょう。
机とか、万年筆とか、あるいは、これは物質とはかぎりません。形あるものとは限りません。「こころの働き」の中で、常日ごろ、心にかけているもの、いつも念頭から離れないもの、そんなもののことを「前に置く」と考えられることでしょう。
そして、その「前に置く」ものは、人それぞれで違いもありましょう。また境遇、境涯の違いによって本当に千差万別でありましょう。そういう中にあって、阿弥陀如来という方は、一体何をいつも自分の前に置いておかれたのでしょう。それは「生死の苦海」に浮きつ、沈みつしている衆生を必ず仏にせずにはおかぬということであったのです。

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苦悩の有情を捨てておけないということです。これが、仏の願いであります。この仏の願いの一部始終のおいわれを聞かせて頂くことが、願いを受けとめる私たちの姿でありましょう。

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