こころの法話集296
お話296
「報恩謝徳」の心大切
大野市伏石・常興寺住職 巌教也
親鸞聖人のお言葉を聞き書きした「歎異抄」という本の第五節は「親鸞は亡き父母の追善供養のためと心得て、念仏をとなえたことは、かつて一度もない」(意訳)という言葉ではじまります。
ところでこのことは、聖人がいらっしゃった当時の仏教事情を批判されたものとうかがわれます。たとえば聖人の書かれた「悲歎述懐和讃」に「五濁増のしるしには、この世の道俗ことごとく、外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり」とか「かなしきかなや道俗の、良時・吉日えらばしめ、天神・地祇をあがめつつ、ト占・祭祀つとめとす」とあるように、まことの仏教とは何かと、自分自身を通して問い求められたのが、聖人の九十年の生涯をつらぬく仏法聴聞の姿勢でありましたから。
ところで表題の言葉を味わいますと、今現在生き残っている私の側から、亡くなられた方に向かってする供養は、慰霊とか鎮魂の供養をしてあげるといった、除災招福を条件とした感じが強く、これを自力の廻向(えこう)と申します。それとは逆に、亡くなられた方から、今生きているこの私、いのちの尊さに目覚めよと、聞法の一大事を呼びかけて下さるそれは他力の廻向でありました。それこそ、財施・法施・無畏施の三つの布施の仏さまの教えに仕える報恩謝徳の、大切な仏法の仕事がありました。