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こころの法話集304

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お話304

大野市伏石・常興寺住職 巌教也

真実との対面交通を

あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出合いました。それは…
「オギャーと生まれて、年をとっていく。この道は引き返しがきかへん。一方通行じゃもん」(わらじ医者)
人間は、この世の中に生きている限り、眠っている間も心臓は脈打って働いてくれていますし、呼吸も休むことがありません。
あたり前といえばあたり前のことですが、なんでもかんでもあたり前だとしか思わない、そんな身勝手な前だれを、心のみだしなみの上からも、ちょっとはずして、私たちの人生の生きる意味を、しばらくでも考えてみることも、大事なことではないでしょうか。人間だけが、ものを思い考える動物でありますから…。
村はずれの道端に立っているお地蔵さんは、雪の降る冬の間は、だれがするのか、古ぼけたコーモリ傘を背中にくくっていられる姿は、ユーモラスです。「野の仏目鼻が欠けていて笑う」という俳句のように…。
そして春になると、新しい帽子と前かけを、まただれがなさるのか、心あたたまるサービスです。そして「飛ばせ飛ばせブッ飛ばせ、三途の川までもうすぐだ」とばかりスピード違反の自動車の排ガスにも気をかけず、かえってドライバーに気をつけなさいというように、ほほ笑んでいらっしゃるお地蔵さんです。ある詩人は歌いました。
「たった一つ
 たった一つの
 真実を言いたいのか
 石の地蔵は掌(て)をあわす」

お話304

 そしてまた
「拝まない者も拝まれている
 拝まない時も拝まれている」
と。
お正月の初もうでの時とか、お葬式の時の外は、めったに手を合わすことの少なくなった現代人に、どうか目には見えなくても、この世の大事な真実というものと、たまには対面交通して下さいと、私たちの人生の道行きに、石のお地蔵さんは、沈黙の声でささやいていて下さるのではないでしょうか。

真の自己計練と教育

あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出会いました。それは…
「読み・書き・ソロバン、昔から頭の訓練はこの三つ。人間の体は、どの部分でも、使わなかったら衰えます。」(わらじ医者)
本を読むのも活字離れが進んで、大人の世界にまで見るマンガや写真の本が流行し、また読んだり見たりするよりも、聞くほうが楽のためか、本までがカセット時代に入りました。ペンや筆をもたなくても、ワープロが文字を記憶し打ち出してくれますし、それにボタンを押すだけでの電卓が、パチパチと弾くソロバンの音に取ってかわりました。それだけ頭の体操も、機械化され視聴覚化されたということでありましょう。
昔は小学校の先生は訓導という肩書きでした。中学校になると教諭、そして旧制の高校と大学では教授と呼ばれました。訓導とは文字通り口と手でもって、生徒を導いてくださいました。教諭は教え諭す先生でした。
そして教授は先生と学生が対等の立場で、自分の学んだものを教え受け渡すといった人格的なふれあいであり、人間の精神的な成長に見合ったおおれに節目というものがありました。
それが現代の教育においては変化して、家庭教育よりも保育園・幼稚園が出発点になっているようであります。その保育園の保母さんの保という文字は、母親が子供をオンブして、身の安全を守りながら育てる意味だということです。
ですから教え育てる二つの働きは、親と子が、先生と生徒がお互いに教えられ育てられといくという育目、共育ということばに置き換えて見ると、より一層に教育の意味と内容がはっきりと理解されるかもしれません。
それはさらに家庭教育、社会教育、宗教教育の分野まで広がります。その場合、たしかに宗教も文化の一領域に入りますが、ただ他の文化と異なる一線は、宗教が自覚的な精神の自己否定性と、真理に対する超越性を求める点でありましょうか。
人間だけが持っている、その深く重たい精神構造において、自分自身のなかに否定されるべきものの発見こそ、人間としての真の自己の訓練と教育の実現につらなる、生涯教育の意味があるのではないでしょうか。

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