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こころの法話集313

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お話313

美山町獺ケ口・正玄寺住職 岩見紀明

仏が私を動かす力に

仏さまに出会うということは、現実においては仏の教えを信ずるということです。法然上人は「遇(あ)うというも、もし信ぜすば遇わざるがごとし」(和語灯録)と述べられていますように、出合いがあり、語らいがあっても、お互いに信ずるということがなければ、それは単なる行きずりにすぎません。
法然上人と親鸞聖人の出会いは、まさに信によって結ばれた関係だといえます。語るものは固くものに同心し、聞くものは語るものに同信するという関係で、そこには師弟という関係を超えた親友(しんゆう)であり「よきひと」であったと思います。
親鸞聖人は「一念多念文意(いちねんたねんもんい)の中で「遇はまうあふという、まうあふとは本願力を信ずるなり」と表現されています。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願に遇わせていただくことを「あふ」とはせず「まうあふ」と表現されて、阿弥陀仏の願いにあわせてもらうことは、阿弥陀仏の教えを信ずることだと説かれています。
仏さまと私たちの関係は、仏さまとの出合いの経験のないものにはわからないかもしれないが、目には見えないはずの仏さまが、仏さまを信ずる人の心には、はっきり見えるのです。
親鸞聖人も「観(かん)は願力を心にうかべみると申す」と述べられています。仏さまは、私たちの心に宿り、私を生かし支え、私を変え、私を動かす力となってくださるのです。
私たちは、あらゆる恵みに生かされていると気づかせてもらうとき、恵みに感謝する活動力がそなわることは理の当然であるといえます。

仏法を味覚し楽しむ

お話313

中国唐代の学僧、曇鸞(どんらん)という方のことばに「仏顕に乗ずるをわが命となる」というのがあります。このことばの意味は、阿弥陀仏の本願におまかせすることが、私の人生のすべてであるということであります。
この文は、天親という方の書かれた「浄土論」という書物の中で述べられた「仏法味を愛楽し、禅三味を食とす」という御文を解釈されたものであります。その心は、浄土の一は仏法を味覚して楽しむことを食べ物にたとえて表現されたもので、仏の命を自己の命として生きる人の姿を表明されたものであります。
親鸞聖人は、現実において浄土の人のように、浄土に生きる人の姿を「必定の菩薩(ひつじょうのぼさつ)」と表現されています。必定の菩薩とは、仏の心を味覚し、仏の心を活動する人たちのことです。
仏とか菩薩とは、単なる名詞ではなく動詞としてとらえねばなりません。苦悩する人々を救うために、生きて働いてくださる活動相そのものであります。
いつも、私たちにささやきかけ呼び掛けてくださって、日々の私の生活のうえに、美しい心、美しい言葉、美しい形となってあらわれてくださる働きなのであります。
親鸞さまが「仏顕に乗ずる」と述べられて、仏さまのお願いに絶対随順(ぜったいずいじゅん)を表明されたのは、このような心の経験によるものと思われます。
ただなんとなしに暮らしている人には、わからないかもしれませんが、阿弥陀さまは、聞法する人の心に、いつも生きてはたらいていてくださるのであります。

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