こころの法話集038
お話038
日々に安らかさを
金沢市・瑞泉寺住職 杉谷斎
年寄りの宗教
二十数年も前、初めて金子大栄師をお迎えした時のこと、公開の法話の席で「真宗は年寄りの宗教だという非難に対して憤慨する人がいるが、年寄りの宗教でよいではないですか。年寄りが救われないで、どうして若い人が救われましょう」と話しておられたことを懐かしく思い出します。
一家族の例で見ても、親が救われないのに、子供が救われるはずがないといってよろしいかと思います。しかも若い人だけの世界なんてあり得ませんし、若い人はどれだけ頑張っても、自分の年までの経験しかないので、それ以上の経験をするためには、どうしても生きていることが必要でしょう。生きておればおのずと年をとるわけです。
では、救われるとは、どのようなことなのでしょう。私たちは昔も今も、必ず死ななければならないものとして生きております。しかもその死はいつ来るのか全くわからないという存在、つまり一寸先は闇(やみ)という状態でしか生きることを許されないものだといってもよいでしょう。
この事実を単に頭で理解するだけでなく、この身に信知させていただいた上で、自分に与えられた一日一日を心安らかに過ごさせていただける境地、つらい時もあったし、悲しい事もあったが、生きて来てよかったと受けとれる心ばえ、これこそ救いといってよいと思います。
年寄りが年寄りに安んじることが出来ることこそ何より願わしいのではないでしょうか。