こころの法話集039
お話039
称える人の心しだい
金沢市・瑞泉寺住職 杉谷斉
空念仏
もう三十数年前のこと、暁島敏先生の講話会で、ある人の質問に対するお答えの中で、念仏には空念仏ということはないと言っておられたことを思い出します。「正信掲」に本願名號正定業という一句がありますが、この一句は明らかに本願の名號、即ち念仏は正定の業であるとの仰せだから、念仏に空の念仏はあるはずがなく、従って空念仏ということはあり得ないと言ってよいと思います。
それなのに、一般には空念仏という言葉はよく使われる言葉だし、いろいろな分野で社会的な通念として、派手に騒ぎ立てても何も効果が上がらないような場合などに使われているようです。
しかし、念仏には空も嘘(うそ)もあるはずがなく、念仏は念仏以外の何ものでもありません。問題は念仏する心にあるといってよいと思います。空だと思う人には、空と思えるわけですし、一心に無我になって称(とな)えたと思う人には、この念こそ本当の念仏だとご自分で思っておられるだけのことではないでしょうか。

私たちの心が、移り気で当てにはならず、まことなどみじんもない煩悩具足そのものだということは、少し仏法を聞かれた方ならだれでも、その通りとうなずかれることと思います。従って、私たち凡夫としては「本願の名號は正定の業なり」の仰せを信じ、わが心の善しあしを言わず、中身があるか空かを言わず、ただ念仏するほかないのではないでしょうか。