こころの法話集041
お話041
臭みの出ないように
金沢市白菊町・瑞泉寺住職 杉谷斉
凡夫であることの悲しみ
一般に僧りょの方が僧衣で門信徒の方々に対する時、当然のことながら仏法の話をされることが多い。法話の上手な方や学問のある方は、研修会とか聞法会に招かれて大いに仏法を語られる。お話はいちいちごもっともであり、教えられることも多い。しかし、このような方でも、日常生活の中で仏法の香りのする方は案外少ないのではないでしょうか。
かつて、金子大栄師が講話会で、仏法を聴聞する人の中に、えてして「われこそは仏法を聞くものなり」という心が潜んでいることに気付かない人があるのではないでしょうか、と問いかけられておられたことを思い出します。
もともと聞法は、人に誇るものでないことは申すまでもないことで、なぜ仏法を聞くのかということを忘れたところからくる錯覚と言えます。このような人から出て来るのは、仏法者の臭みと言ってよいと思います。同様に、頭で理解し、知識として習得した人は、聴き手に対した時、仏法を語ることは出来ても、必ずしもその身から仏法の香りが漂ってこないのは、当然のことと言えましょう。
お聖教を読み、聞法会、研修会にと足を運び、熱心にノートをとり、意見を述べる。全く申し分のない宗教者の姿といえるようです。近来、この種のまじめな僧りょ方が多く見受けられます。しかし、このような人たちから出るのは大体仏法者の臭みで、せっかく仏法にご縁を持ちながら、仏法の香りが漂ってこないのはどうしたわけでしょう。
この香りと臭みの違い目はいろいろあると思いますが、まず第一にわが身が凡夫であるということの悲しみが欠けているということが、その大きな理由ではないでしょうか。せめて臭みの出ないように生きたいものと念じております。