こころの法話集135
お話135
本来求めるべき願い
福井市上莇生田町・安楽寺住職 佐々木俊雄
安心
最近、年齢を重ねるにつれて、人間が厚かましく、ずうずうしくなるのか、万事について好き嫌いが際だってきたように思えてなりません。
それは食べものの好き嫌いにも現れてきました。淡泊味がありがたくなったのもさることながら、私にとっては、酸味が遠ざかり、甘味がたいそう味わい深くなってきました。
舌の上をひろがり、そしてしみわたる甘味の感覚は、こたえられない味わいであります。
好き嫌いは対人関係にも驚くほど露骨に現れるように思えます。ある人の本当にささいな言葉の端々に、すぐ不快感がわき、そうかと思うと、おかしいことに、その同じ人のちょっとしたやさしい語りかけに、瞬時にしてそれが直り、好感に変わっていくのです。人間、年齢が進むにつれて子供の気持ちに戻ると申しますが、本当にそのように思います。また、思いがかなえられないときのイライラ、ジリジリの感情も抑えることができません。人間、年の功で、自分が感情を抑えることができるはずなのに、実際はその逆のようでございます。
そのような喜怒哀楽の感情に流される自分を思うとき、このようにして一生を送ってよいのか、との反省もまたあるのです。

親鸞聖人は、「地獄は一定」と申されました、煩悩の命ずるままに打ちすぎる自分の姿は、因果の理法にあててみれば、とても成仏の思いとはならないとの述懐であろうと拝されるのであります。仏心とは、本来、私どもが求めなければならないにもかかわらず、実際にはそれに背を向けて歩む人間をあわれみ、その人間の真の願いを先取りして与えて下さる心でありましょうか。
それゆえに、仏心に巡り会い、仏心に固く結ばれたとき、私の心に「安心」が起こるのであります。