現代風の家具調モダン仏壇 仏具の通販

こころの法話集303

お話302 トップ お話304

お話303

大野市伏石・常興寺住職 巌教也

「おかげさま」を大事に

あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出合いました。それは…
「赤ん坊の足には豆はないけれど、お年寄りの足の裏には歩きダコと、豆がいっぱいできている」(わらじ医者)
しみじみと足の裏に、ゴクロウサンと声をかけたくなる時がございます。
私自身、六十年間右足のヒザが曲がらず、伸ばしたままなので、足の裏は鏡に写して見るより外に方法はありませんが…。
病気で寝たきりの方とか、歩くのに不自由な方とか、実は私も少年のころに返って思いきり走ってみたいですし、ダンスができたら、どんなにカッコいいだろうナということを、この年になってもまだ思ってみる時がございます。
私の場合は、足の長さがすこし違うので、左右の大きさにも差があり、豆も歩きダコもちぐはぐです。でもそんなかっこうをして、私の体重をささえるために、バランスをとっていてくれるのが足の裏であります。特に足の親指が、ガッシリとふんばっていてくれるおかげであります。

お話303

この「おかげさま」という言葉も、私たちの日常語からだんだんと影がうすくなったようです。もう一度お互いに、この言葉のもっているあたたかさを、大事にいたしたいと思います。
ある詩人は歌いました。
「生かされて 生きてきた
 生かされて 生きている
 生かされて 生きていこう
 手を合わす 南無阿弥陀仏」
と。

十億万土は迷いの深さ

あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出合いました。それは…
「老いとはひとりひとり“それなりに”ちがった人生の街道を歩いてきて、いろんなものを見、聞き、そして分かり身にいっぱいゴミやチリをつけて、なおかつ今を歩いているものなのだ」(わらじ医者)
浄土三部経の無量寿経の中で、お釈迦さまはお弟子の阿難に向かって「あきらかによく聴け、今汝(なんじ)のために説かん」と申されました。そして観無量寿経の中では、お釈迦さまは韋提希夫人に向かって「汝今知るやいなや、阿弥陀仏ここを去ること遠からず」と教えられました。そして阿弥陀経においては「仏、長老舎利仏に告げたまわく、これより西方、十億万土を過ぎて世界あり、名づけて極楽という、その土に仏まします。阿弥陀と号す。今現在説法したもう」と申されました。
親鸞聖人が選びとられた浄土の三部経は、ただ「今」という現実の一点に、仏の心、仏の願いを頂かれたからでありました。
念仏の念の文字は、今の心と分解して読むことができます。それなればこそ親鸞聖人は、その念仏・念法・念僧の心を「遇(あ)い難くして今遇うことを得たり」と、ただ「今」の告白を私たちに残して下さいました。そして先の仏さまの言葉のように極楽は十億万土のかなたにありますが、しかしそれは距離の長さではなくて、私たちの幸福を遠いところに求める、迷いの深さのことであることに目を覚ましなさいという、仏さまの智慧(ちえ)と慈悲の呼び声でありました。

お話302 トップ お話304

powered by HAIK 7.3.0
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional