こころの法話集305
お話305
大野市伏石・常興寺住職 巌教也
感動する心を大切に
あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出会いました。それは…
「心がぬれて、人間と人間とのつながりに感動することや」(わらじ医者)
感動するということは、極端な表現かも知れませんが、電気に触れて感動するようなことかも知れません。全身がピリッと打たれるように…。たとえばちょっとした行いやさり気ない言葉、気配りであったとしても…。テレビの一場面、絵画や彫刻、文字、自然の風物との出会いであっても、思わず一瞬呼吸をつめ涙のあふれる、そういった人間の心にどうしておこるのか分からない、そんな不思議な感動する心を大事したいと思います。
「我思う、ゆえに我あり」とか「人間は考える葦(アシ)であるという有名な言葉がありますが、ひょっとすると「我感ずるがゆえに、我あり」というところに、血と涙と汗を流す、この我が自信にひびくものこそ、深い人間の命のそこからわき上がってくる、それは地下水のようなものではないでしょうか。
ある詩人は歌いました。
「水はつかめません
水はすくうのです
指をぴったりつけて
そおっと大切に・・・
水はつかめません
水はつつむものです
二人の手のなかに
そおっと大切に・・・
水のこころも
人のこころも」
ご恩の心持ち続け
あるお寺の掲示板で、私はこんな言葉に出会いました。それは…、
「人間は、みえない多くの手に守られて生きている。いや“生かされている”ということがわかる非常にすぐれた動物です。これを“おかげ”という“恩”もやはり眼には見えない」(わらじ医者)
西洋には「因縁」という意味を持った言葉はないそうです。だから東洋独特の味わい深い言葉でありましょう。ちょうどユダヤ・イスラム・キリスト教が、中近東の砂漠の風土から生まれたのに比べて、東洋の仏教が、水と緑の自然の風土を背景にして生まれたように…。お釈迦さまは春四月、ルンビニーの花園で誕生あれ、冬二月、娑羅双樹の花の下で亡くなられました。それこそ八十年の花の生涯でありました。
私たちも人生の最終ラウンドで“今や花よ”と、花の時間を持ちたいものと、しみじみと思います。
一茶晩年の句に「いざさらば 死にげいこせん 花の雨」「死に支度 いたせいたせと 桜かな」というのがありますが、せっかく老いたのだからナアという一茶のつぶやきが聞こえてくるようです。
ある詩人は歌いました。
「ゴーン ゴンゴン 鐘が鳴る
野越え 山越え 里越えて
鐘のひびきが ほうてくる
響きの行くてを 追ううちに
お慈悲の姿が ゆれてきた」
そんな鐘のひびきに、ご恩ということを感ずるように、私たちも“ありがとう”“おかげさまで”と素直に言える、あたたかい心を持ちたいことでございます。