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こころの法話集310

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お話310

坂井町御油田・演仙寺前住職 多田淳政

生かされている自分

私たちは、自分の力で生きているのだと思いがちです。事実「おれはだれの世話にもならず、だれにも迷惑をかけていない」と放言する人もいますね。しかし、果たしてそうでしょうか。
動物は、自分の目で見られる範囲しかわからず、また過去の事や未来の事は考えも及ばないそうですね。すると、今元気で生きている自分の現状しかわからないことは、動物にも等しいと言わねばなりませんね。
よく考えにみると、私たちは生まれ落ちるから今日まで、父母の大きな慈愛の下で育てられ、世間の人々の限りない恩恵を受けてきました。また未来にはどんな事で、どんな人のお世話になるかもしれないのであり、さらには、稲や魚などの生命をもらって生かされているわけですね。
そういう、時間的(タテ)にも空間的(ヨコ)にも、お互いが助けたり助けられたりして生きているのが事実ではないでしょうか。そのことに目が開けるのが、仏法では「縁起の道理」といいます。
縁起とは、すべてのものが縁によってつながっており、縁によって生起しているということであります。そこではすべての事がご恩といただかれ、生かされて生きている自分であるという喜びが感じられることでありましょう。
病気のため両手両足を切断し、ダルマのような姿で、七十数年の苦労の生涯を送られた中村久子女子は、晩年に次のような歌をよんでおられます。
「手足なき身にしあれども生かさるる今日一日の生命とおとし」深く味わいたいものですね。

当たり前にこそ感謝

お話310

私たちは、出産や婚礼のような特別のことには大へん喜びますが、平生のことにはあまり喜びが出ませんね。いや、時によると、毎日会社へ出たり、家庭内で掃除や洗濯をしたりの平穏な日が続くと、毎日同じことの繰り返しではつまらぬと、不平の気持ちを抱くのが常ではないでしょうか。
しかし、実を言うと、変わらぬ日が続くことこそありがたいのであって、もし病気や災難などの変わったことができたら、それこそ大困りではないでしょうか。
仏道は「日常茶飯事の中にあり」という言葉があります。生かされている自分に気づかされると、このままがありがたいのです。当たり前のことがありがたいのです。
妙好人の源尼さんが、田んぼで働いている時、急に夕立にあいました。大急ぎで帰ってくると、村の入口でお寺のご院さんがおられて、「源尼さん、ひどい夕立で大変だったなあ」と言われると「いや、ありがたいことですわい。私の鼻が下を向いているのでありが
たいことですわい」と言ったということです。
鼻が下を向いてついているのは当たり前のことです。しかし、その当たり前のことが喜ばれる心は、まことに幸せなことです。考えてみれば、何十年もの間、こうして生かされてきたことは、もうそれだけで大きな喜びではないでしょうか。
両手両足の無かった中村久子女子は「手はなくも足はなくともみ仏の袖(そで)にくるまる身はやすきかな」と、歌をよんで喜んでいます。
み仏のお慈悲に包まれて、生かされている一日一日を、喜びと感謝の気持ちですごさせていただきたいものであります。

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