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こころの法話集309

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お話309

坂井町御油田・演仙寺前住職 多田淳政

死で教えられる仏法

このごろのお墓は大変立派になりました。そして、お盆、お彼岸にはお墓参りの人がふえていますね。お墓を大切にし、亡き父母や先祖の方々を崇敬することは、まことに尊いことであります。
私もお盆やお彼岸などにお墓参りをしますが、墓前でお経をあげながら、ふと内心に「自分は今、いかにも殊勝げにお墓を拝んでいるが、父母が生きていた時に、一度でも父母を拝んだことがあっただろうか」と反省させられることがよくあります。
生きておる時にはさんざん心配をかけ、親孝行らしいことは何にもしなかったくせに、今お墓の前で殊勝な顔をしたところで、何の役に立つものか。もしそれで何かよいことでもしていると思い上がっているなら、全く身の程知らずの恥知らずではないかとさえ思われて、やるせない気持ちがいたします。
本当の仏法とは、そういう形式的なところにあるのでなく、この私の心の中に尊い仏さまの教えを聞かしていただくことであり、全く私自身の問題なのでありましょう。「法に会うことは自己に会うことだ」という言葉もあります。
死を聞くことによって、親や先祖の方々のご恩を知り、そらに広大な仏さまのお慈悲に目ざめ、一方そのご恩をご恩とも思わない自分の心のあさましさに気づかれたなら、ただただ頭の下がる外は無いわけであります。
お墓参りする心もそういう自分自身の問題として、気づかせていただかねばならぬのではないでしょうか。

最も罪深い自是他非

お話309

お釈迦様の教団では、当時のインドにあった「四姓」という身分的差別を撤廃して、すべての人が平等であるという立場をとられました。仏教では「法の前には一切の人が平等である」ことが理想であります。親鸞聖人もその立場に徹せられて「御同朋、御同行」と申されたのでありました。
しかし、私たち人間は、自分は正しくて他人は間違っている、自分は善いが他人が悪いのだという「自是他非」の考えからぬけ切れないのが常ではないでしょうか。
従って、何かもめ事が起こると、必ずおれは間違っていない、相手が間違っているのだと主張します。双方がそういう考えに立つから自然、争いになり、決局物事は成就しないし、お互いが自ら悩み苦しむことになるのです。
仏法では、この自是他非としう考え方こそ、もっとも愚劣で罪深いことであると言われています。
聖徳太子は「我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚にあらず、共に是れ凡夫なるのみ」と仰せになり、親鸞聖人も「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と申されて、むしろ自分こそ悪人凡夫であると内省しておられます。
自分のありのままのすがたを、すなおに見つめる目が開けたら、このあさましい自分がおかげさまで生かされていると、すべきの人を敬い崇(たっと)ぶ平等の心が開けてくるのではないでしょうか。

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