こころの法話集332
法話332
念仏で喜びの発見("仏の船"で苦海を渡る)
勝山市沢町一丁目・法勝寺住職 佐々木蓮證
生死出ずべき道
「生死の苦海ほとりなし、ひさしく沈めるわれらをば、弥陀弘誓のふねのみぞ、のせて必ずわたしける」(和讃)
親鸞聖人は阿弥陀如来の本願のはたらきを船にたとえられ、この人生を「生死の苦海」というように海にたとえられています。これは南無阿弥陀仏の法のはたらく場所は、苦悩多き人生そのものの外にないことを示されているのです。
この人生の海を渡る私は「惑染の凡夫」と言われ、貧、瞋(しん)、痴の煩悩におぼれる凡夫であります。泳ぐ力のないかなづちの私が、かなづちのままで浮かぶ方法は船にのせられるより外にないのです。船の力で沈まないことになり、船に乗れば「念仏者は無碍(むげ)の一道」といわれるごとく、人生にどのような逆境に遭遇してもおぼれない力を与えられるのです。
お念仏の法にあう身になったことを「歓喜地」といわれます。地とはどんなに悲しい時でも、腹の立った時でも、喜びの場を失わないことを言います。それは人間であることの喜び、生きていることの喜びの発見であります。どんな場合でも失わない喜びがあれば、苦悩を乗りこえて人間として本当に生きる道が開かれるのです。
ですから仏法は「生死出ずべき道」であります。生死の問題といえば多くの人は死後の彼方(かなた)のことのように誤解していますが、仏教は現実そのものを問題としているのです。阿弥陀如来の本願を信ずれば、本願は南無阿弥陀仏の船となって、生死の海に沈める私をのせて、必ずこの苦悩の人生を強く明るく渡してくださるのであります。