こころの法話集333
法話333
窓開く念仏の知恵(親切のあやふやさ知ろう)
勝山市沢町一丁目・法勝寺住職 佐々木蓮證
未通りたる善意
仏教で慈悲ということは、人をかわいそうだと思って同情することではありません。徹底した信念から見ますと、親鸞聖人は普通一般の善意は雑毒の善であり、虚仮(こけ)の行であり、念仏のみぞ未通りたるまことの善であると申されました。
私たちの善意、親切というものは、心の中に何がしの優越感が起こり「自分がしてやった」と誇る気持ちがでてきます。私たちの親切はおよそそんなところではないでしょうか。だから大抵は自分の立場が悪くなるとやめてしまい、あとはお互いに気まずい思いだけが残るということになります。
聖人はこのような私たちの親切のあやふやさをよく知れと申されたのでありましょう。こちらの親切が通じないと「せっかく親切をしてやったのに」ということになり、私たちの親切の未通らない姿がここにあります。どうしてこうなるのでしょう。それは人の心に通じ合う心の窓を開ける知恵がないからであります。
聖人は念仏の知恵と申されました。念仏の知恵によって、私もあなたも共に大きなみ仏の慈悲に包まれているのだという心の窓が開けられますと、み仏の恵みに浴した恩徳感謝の心から、自然法爾(じ)に流れ出る慈悲に転じられてゆくのであります。
親鸞聖人は常に「一切の人々は父母兄弟であり、御同朋御同行である」と申されたのは、自己主張の人が多い中に、人権尊重を根底とした信頼と協調性を高めてゆく正しい人間関係のあり方を、おさとし下されたお言葉としていただくのであります。