こころの法話集350
お話350
真の言葉は「黙」から
福井市田原二丁日・法円寺住職 細江乗爾
口かずについて
「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」という言葉があります。燃えている火を消せば、そこには「寂静」の世界があるわけです。
その世界は静かな世界です。例えば、水を少ししか入れてないビンを振れば、やかましい音がしますが、ビッシリいっぱい水を満たしますと、振っても音がしません。人が寄れば、すぐに議論が始まり、言わなければ損だというような風潮があるようにさえみられます。
「沈黙」について、仏法には「維摩(ゆいま)の一黙」があります。沈黙には一とか二とか数えるべき個体があるはずがないのに「一黙」と押さえたところに沈黙の価値がみられるような気がいたします。
「黙」というのはコトバの無いことではないのです。「コトバ無きコトバ」でしょう。空間にギッシリとコトバの詰まっている状態、それが仏教でいう「一黙」でしょう。真実の言葉は、おしゃべりの中からは生まれては来ません。

「黙」の中からこそ生命のかよった本当のコトバが生まれるのではないでしょうか。あのご仏像の静かなほほ笑みの中に、多くのコトバを聞きたいものです。お茶にしましても、お花にしましても、また書道にしましても、静寂の支配する世界です。私たちの毎日は言葉が多過ぎるようです。
あらゆる言葉の摩術を尽くして、自分を飾り、相手を非難する、そこには仏はいまさず、和の世界は遠く、争い、いさかいの姿のみが出てくるのではないでしょうか。