こころの法話集379
法話379
風葉の身たもちがたく草露の命きえやすし(一)
福井市太田町・平乗寺住職 神埜慧淳
『風葉の身たもちがたく、草露の命きえやすし。乃至、南隣にも哭し、北里にも哭す。人をおくる涙いまだつきず、山下にもそい、原上にもそう。骨をうづむる土かわくことなし。いたましきかな、まのあたりことばを交えし芝蘭のともも、息とどまりぬれば遠くおくる。あわれなるかな、まさしく契をむすびし断金のむつび、魂去りぬればひとりかなしむ』といへり。云々
風葉の身たもちがたく、とありますが、昔から土用か入り三日に秋風が吹く、といわれておりまして、暑い陽射しのすぐ向うに秋がのぞいているのであります。夏の繁りも、秋になりますと、あるかなしかの風にさへ、さらさらと枯葉が散ります。たとへ、どんなにしがみついていようとも、その時がくると、風にさそわれ、散りゆくのでありまして、人の命をしのばせるのであります。そう云へば、法然上人行状絵図に『いとみうといへども存するは人の身なり、おしむといえども死するは人のいのちなり』というお言葉があるそうであります。生きることの苦しくて、この世に”さよなら”といいたくても、時節がこなければ、存するは人の身なり、ということで、自分勝手には死ねないのであります。次に、おしむといへども死するは人のいのちなり、と御言っているのでありまして、死にたくないと考へておりましても、その時がくると、いのち終えるのであります。死するは人のいのちなり、とまことに厳しい事実を述べられるのであります。風にさそわれて散る、この身のことであります。草露の命きえやすし、陽が上りますと、何時しか、草の露は消えてなくなります。朝つゆのはかなさに、わが人生の真実を知らせて下さるのであります。この名文は、存覚法話に引用されております。解脱上人の『愚迷発心集』のお言葉であります。