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こころの法話集382

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法話382

如来の願船こそ道(無明を破るあの世の光)

坂井町蔵垣内・勝林寺住職 佐々木教応

人生(二)

引き続いて人生についてお話しいたします。さて生老病死の流れの果ては、生死の苦海という海に流れ込んでゆく私です。「生死の苦海」とは、生まれたり死んだりする世界、自分自らの行為によってつくり上げた業。この業が因となって永久にこの私をして、生と死を繰りかえす苦悩から一歩も出ることの出来ない世界であります。
親鸞聖人は和讃の中に「生死の苦海ほとりなし、久しく沈める吾等をば」と述べられ、生死の苦悩から永遠にのがれることの出来ない自分の姿をいたまれました。この人生の実相、自己の真相に心の目が開かれる時、求めずにおれないものこそ真実の救いでありましょう。
ただここで心の目が開かれると言っても、実は私たちは心の目を開くだけの光を持ち合わせません。もともと無明と言われる私です。やみ夜に明かりを持たずに歩いている私です。何一つ見届けることの出来ない愚かな私です。そこにはどうしても光を必要とします。
この世の実相を知らして下さる明かりこそ仏の光明です。「世の盲冥(めい)を照らすなり」あの世の光がこの世を照らして下さるのです。無明のくらやみが破られて、私があきらかになると同時に、救いの仏のましますことを知らせて下さいます。生死の苦悩に沈輪する私を離れて救いの法はないからです。
親鸞聖人が和讃の中に「弥陀観音大勢至、大願の船に乗じてぞ、生死の海に浮びつつ、有生を呼うて乗せたもう」と歌われ、今ここに南無阿弥陀仏の救いの船が、私一人のために用意されてあったことを喜ばれました。
生老病死の川の流れのままでは世流れ人です。世を渡る人でなくてはなりません。如来の願船こそ、生死の苦海を渡るただ一つの道であります。

挿絵

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