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こころの法話集385

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法話385

一人で生きられぬ(常に相手の身になって)

坂井町蔵垣内・勝林寺住職 佐々木教応

社会

人間は社会的存在であると言われるように、一人立ちでは生きてゆくことは出来ません。「私らは年寄っても若い者の世話にならん」と言う言葉をよく耳にしますが、本気でそう思っているのかどうか。
例えば、一軒の家を考えてみても、一階は土台の力で建てられ、二階は一階のおかげで存在し、家の周囲は多くの木材でつながれて、互いに相助け合い力になり合って出来上がっている。これと同じように、私たちも社会の仕組みの中で多く恩恵を受けて生かされていることを忘れてはなりますまい。
現代は個人が優先し、全体が忘れられようとしています。一つの大きな網は、小さな網の目が縦横につながり合って出来ているように、社会という大きな網の中の一個が私であることを自覚する時、個人の気ままな自由は許されないはずです。
彼在(ある)るが故に此(こ)れありで、アナタがいて下さるからこそ、私もおれるのですという生き方こそ大切ではないでしょうか。
親鸞聖人が、真実ということについて、実とは「必ずもののみとなる」と述べられ「み」となるとは、二つ意味が含まれるようで、一つは身となる、もう一つは実となる。身となるとは相手の身になるという心でしょう。相手の身になって物を言う。相手の身になって行動する。少しは私の身にもなってよ、と要求はしますが、相手の身になることを忘れがちです。
仏様は常に私たちの身になり、そして実りある人間に育てて下さいます。こうした仏のお育てをいただいている私たちです。せめて今日一日、社会の恩恵の中に生かされる者として、常に相手の立場を考え、全体のために行動することが、社会的存在としての人間のマコトの生き方ではないかと思います。

挿絵

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