こころの法話集011
お話011
道求め得た人の世界
福井市田原二丁目・法円寺住職 細江乗爾
三六〇度の転回
臨済録の中に、こんな言葉があります。〈仏法は格別役に立つものではない。日常の普通の生活の中にあるのだ。糞(くそ)を垂れ、小便をし、着物を着て飯(めし)を食い、眠くなれば寝るだけ。これを理解できない人は、とんでもないことを言う奴(やつ)だと私を笑う。しかし、本当に宗教の世界の分かる人は、この意味をよく分かってくれる〉だれでもが繰り返している生活の中にこそ、仏法が輝くのだと言っているのです。
しかし、日常のきままな生活が、そのままでよいというのではなく、あくまで道を求め得た人の帰らしめられる世界ということです。よく、信仰をもつと、今まで腹立たしく思っていたことが、そうではなくなり、「一一〇番の転回がなされると言われることがあります。しかしよく考えてみますと、これは三六〇度の転回ではないかと思うのです。物を三六〇度転回させると、見た目には前と少しも変わりません。しかし、転回したという事実は大きな変化なのです。

「正法眼蔵随聞記」にも、〈なんともなく、世間の人のようにて、内心を調えてゆくが、これまことの道心者なり〉とも道元禅師は言っています。まことの信仰は、世間の人と何の変わることもなく、賢ぶったり善人ぶったりしないものだとも言われています。